Gansoさんは、ポルトガルのリスボンで生まれ育ちました。柔道道場を営む父の元、自身も物心ついた頃から柔道をたしなみつつも、成人後にカポエラへと方向転換します。現在は、Preservação da Mandingaという流派のベルリン道場を営むカポエイラの師範です。しかし本業は空間生態学、リモートセンシングと生態学間におけるインターフェースの研究などの分野で活動する生態学者です。最近の研究は、「持続可能かつ緑豊かな、未来の森林のインフラストラクチャーシナリオ」。三児の父でもあり、現在2匹の猫と同居しています。
私たちは何かと人間の視点から犬や猫を捉えがちで、「人間にとって健康的な食事は、猫にとっても健康的に違いない」と思い込んだり、人間や動物など他の個体との快適な距離感覚についても、犬と同一視したり、人間と同様に想像しがちです。犬と比べると、不思議と猫の生態についての認識や研究は、あまり進んでいないのが現状です。今回は特に、猫のテリトリー感覚に焦点をあてて、Gansoさんに生態学者の立場からお話をうかがいます。
ポルトガル領の離島、マデイラ島のローリエ保護森林にのみ生息する、Trocaz pigeon という希少な野生鳩に遭遇した直後のGansoさん(長女撮影)。
Gansoさんは生まれも育ちもリスボンですね。リスボンは坂道や路地が網の目のように張り巡らされた港街で、今日でもたくさんの野良猫を目にします。ベルリンと比較すると、その差は歴然です。この街並から、どのような印象を受けて来られましたか?
もちろん私がCat Loverであることは否定できないのですが、生態学者の性といいますか、研究者としての見識を切り離して「猫と街並」を見ることは、難しいですね。まあそんな訳で私は、隣人や市民として野良猫を見る時でさえ、研究者としての背景がつきまとってしまうんです。
かつてリスボンにいた2001年頃、自宅の中庭(ポルトガルでよく見られる、建物にロの字型に囲まれた、パティオ式中庭)に面した窓から、かなり大きな猫のコミュニティの在りようを観察していました。そこに飼い猫はほとんど含まれていませんでした。健康的で寝食に困ることのない私の猫、Miaと比べると、やはり野良猫は常に、餌、テリトリー、ヒエラルキーをめぐる猫同士の過酷な生存競争の渦中にあり、あまりいい生活環境にはありませんでした。開かれた路地裏で見かける野良猫たちよりも、さらに厳しい状況でした。1年もすれば、ヒエラルキーも移りゆき、何匹かの猫が中庭から姿を消し、恐らくは死んでいきました。そしてまた新しい猫が登場し、コミュニティに受け入れられるものもいれば、排除されるものもいました。怪我を負った猫、食べ物にありつけていない様子の猫をよく見ました。こうした中庭の猫模様は、私が一人で全て観察したわけではなく、猫好きの隣人たちと共に私の記憶に描かれていったのです。
冬がくれば、実際のところ猫は犬よりもよほど、人からの風邪やインフルエンザに感染しやすいんですが……それで亡くなる猫もいたでしょう。そしてさらに、猫白血病ウイルスの脅威。例えばベルリンの私の猫たちは、絶対に外に出さないように気をつけているので、感染リスクは低いとは言えますが、猫白血病は飼猫であれば、ワクチン接種が必須のウィルスです。ということは野良猫や放し飼いの飼猫は、こうしたウィルス感染に対する脆弱性があるわけです。野良猫は特に、ワクチン接種の機会もありませんから。私が子供の時分でさえ、野良猫が様々な感染症のキャリアである可能性は知っていましたから、遠くから観察するのは良しとしても、撫でるような接触は控えていました。しかし同時に、やはり猫が好きでしたから、子供心にも野良猫の立場を尊重していましたし、彼らの生き様を称賛してもいました。リスボンでは地元のおばあさんが猫に餌付けをしている風景を今でもよく目にしますし、野良猫を愛し、温かく見守る人はたくさんいます。しかし彼らでさえ、野良猫を撫でることは稀です。野良猫が感染症のキャリアで、健康状態も不安定であることは、リスボンでは昔からの常識ですから。
そうすると、街並を彩る野良猫の在りようというのは、猫にとっても環境にとっても、あまり理想的な形ではないと?
犬は基本的に使役動物ですから、古代の家畜化の過程で、育種に人が関与した度合いが異なります。そのせいか、イエネコの野生的習性の多くは、犬には認められません。また、犬は群れで活動する習性がありますが、野生のネコ科動物は単独で狩りをします。例外的にライオンは、「プライド」と呼ばれる群れの中で生活しています。ネコ科でありながら群れで狩をします。しかし、チーター、ジャガー、プーマ、ヒョウ、トラ……、みな単独行動です。
都会に生息する野良猫に話を戻しましょう。要するに大昔に野生の「自然」から引き離されて、人間の居住空間の周囲、屋内の狭小空間に適応した彼らは、すでに野生動物ではないのです。冷たいアスファルトの上で寝ることは、野良猫にとって決して「自然」な暮らしではありません、柔らかい寝床や、隠れ家が必要です。野生動物であった猫にとっての「自然」と、家畜化したイエネコにとっての「自然」は異なるものです。
そのように、本来の野生の文脈から切り離されたイエネコである野良猫が、生態系に及ぼす影響というのは都市部、地方や山林地帯にかかわらず、甚大です。野良猫は、小さなネズミから、小鳥まで、獲れる動物を全て食害します。これは現在、世界中の様々な都市とその周辺環境における深刻な問題となっています。記憶に新しいのは、オーストラリア環境エネルギー省による、絶滅危惧種にあたる野生動物保護のための大規模なプロジェクトです。簡単に言って、野良猫がその地域の生物多様性を急速に破壊しているのです。実際、希少な渡り鳥が多くの島嶼でノネコ(野生化したイエネコ)によって絶滅の危機に晒されています。この点に関しては、実に多くの調査研究結果が報告されています。ですから猫の飼い主として、彼らの最良の暮らしのためにできることは全てしてあげたいと思っていまが、彼らを自由に放し飼いしたいとは思いません。
カポエイラの公式の試合はRoda(ホーダ=輪)と呼ばれる。右から2人目、ビリンバウと呼ばれる弦楽器を演奏しているのがGansoさん。
イヌの家畜化は約3万3000年前に現在の中国で始まり、餌付け、選抜、育種など、遺伝変化に人が関与した割合が高いのですが、比較するとイエネコは、NATUREの最近の研究成果によれば、紀元前8000年頃に人間と出会って以降、14世紀に中東で人の手による育種が始まるまで、遺伝子的にはほとんど変化していないようですね。そうすると、もともとは新鮮な獲物を食べていた捕食動物(プレデター)な訳ですから、都会のビルの室内で、例えばBARF(小動物の半消化された胃の内容物までを再現した食餌)のようなハードルの高い食事を飼い主が毎度用意しなければならない、現在のイエネコの生活環境や飼い主との関係は、ある意味不自然ですよね。それでも、猫にとって自然でハッピーなインドアライフはあり得るのでしょうか?
そうですね。まず、単独行動をするネコ科動物のテリトリーは、結構フレキシブルなんです。そして大概は、食糧が確保できる範囲に依存して変化します。トラやジャガーなどの野生動物ですと、より狭い領域で充分な食料が確保できるのであれば、それ以上のテリトリー拡大を必要としません。イエネコにも同様のことが言えます。そこに食糧が常にある限りにおいて、テリトリーの広さというのは、猫にとっては全くどうでもいい話なのです。獲物を得るために運動するのであって、もし食糧が常に担保されているのであれば、猫はリラックスして、運動量も減り、もっとよく寝るようになります。生きる心配がなくなりますからね。ネコ科の野生動物の場合でも、食糧がなければ1日に20時間でも狩りに費やすこともありますが、一度獲物を得れば、何日でも可能な限りの休息をとります。イエネコのハンターとしての野生本能の中には、家畜化して失われたものもありますが、イエネコでもテリトリー感覚の学習本能はあります。自分のいる空間のどこに何があるか、餌と水がどこにあるか、その全体性を把握したいという本能的欲求があります。ネコは高いところが好きですね。寝床も高所の方が好みのようです。でも、高所でも吊り橋のような不安定なところ好きではないようです。そして外の様子がわかってさえいれば、あとは箱のような小さな空間に隠れているのが快適なのです。
屋内における猫のテリトリーの形。面? 線? 立体?
それは、屋内環境の構造に大きく依存しますね。家具など登れる構造のある住居なら立体的だし、そうでなければ平面的になります。我が家の例でいえば、テーブルは私たちが食事をする場所なので、登るのは禁止しています。夜中に登っているのは間違いないですけどね(笑)。時間帯もテリトリー感覚に含まれるかどうかですが、単純に、彼らが夜行性なのに対し、普通の人間は昼型ということで結果的には、そういうことになりますかね。しかし、ある程度は同居している人間に活動時間を適応せざるを得ないので、彼らの本能的な活動時間とそうでない時間は、人間に侵害されていますよね。猫がよく遊ぶのは、彼らの狩猟本能の証です。遊びを通して狩りを学ぶんです。だから、成猫に比べて仔猫はよく遊びますね。成猫はすでに狩に必要な技術を習得していますから、遊ぶ時間も少なくなり、より人の活動時間に合わせ、人(餌を与える人、もしくはそういう存在)に寄り添った暮らしに変化してゆきます。面白いことにただ一人としか強い絆を結ばない猫もいますが、うちの猫達はそうでもないです。彼らは私の子供達が大好きですね。哺乳類に種を超えて赤ん坊や子供を認識する特徴があるのは、非常に興味深いところです。猫が非常に忍耐強く、幼い人の子の遊びに付き合っている様子は、珍しくありません。うちの猫は、私の子供達がいれば、そちらを優先します。こうした人間の習性への歩み寄りというのは、野良猫には見られないものです。家に私一人の時には、彼らは私に寄り添ってきます。子供達がいなくて寂しいのでしょうか。
とすると、イエネコは、ヒトの大人と子供を区別していて、共同体の一員として捉えている?
うーん。それはどうかな。私はベルリンで3匹の猫を飼っていました。夫婦である、メスのRiscas(リシュカシュ。ポルトガル語で「縞」)とオスのCaril(カレー)、そしてCarilの父、Café。どうなったかというと、父親は息子を迫害しました。父親と息子の争いがあまりに壮絶だったため、息子のCarilは怯えきって常に暖炉の裏に隠れているという有様でした。結果、父親をご近所へ里子に出さざるを得ませんでした。ここまでの熾烈な争いは、人間の父子関係には普通は見られません。猫は人間に対して寛容的で、猫の生態系においてテリトリーを侵害する競争相手としては見ていません。私たちに餌を与えさえします。そうして人と親しくなるメリットを知っているからです。犬は自分を人間のコミュニティや家族の一員と捉えている可能性が高いのですが、おそらく猫にとっての飼い主や同居人は、家族や共同体の外部に拡張されたエクステンション、外付け、のような存在なのかもしれません。例えば私が子供の頃、街を歩いていて視界に入っていたのは子供だけで、大人には無関心でした。当時の私の共同体は子供達で構成されていて、大人達は含まれていなかったためです。おそらく、猫が私たち人間を見る目も、同様なのではないかと想像しています。
ベルリンの2匹の猫。Riscas(左)とCaril(右)
それでも、生まれた時から他の猫と接触する機会が全くなく、人間に囲まれて育ったような猫では、また違ってきます。猫が自身をどの共同体に紐づけるかは、親や兄妹から経験したことや、その期間の長さに依存します。私がリスボンで飼っていたMiaは、他の猫を知らずに育ちました。彼女の場合、親兄弟に見放されて瀕死のところを引き取られたので、他の猫からのポジティブな影響は非常に限られていたのです。そのような理由で、ベルリンのRiscasとCarilがお互いに影響しあって育ったのに対し、リスボンのMiaの場合は私との関係の方が他の猫よりも強かったのです。「猫らしさ」は遠く窓の外に見る他の猫から学ぶことしかできなかったようです。見ていると、明らかに猫らしさに欠けるというか。
深いですね。「自然」をどう定義するか、誰にとって「自然」か、というのは非常に相対的な問題のようです。地球規模の生物多様性を考慮すると、イエネコにとって「自然」な暮らしを実現するのは、今日において様々な課題があることがわかってきました。
ブラジル、ポルトガルやノルウェイほか世界各地からカポエリスタが集う大会でRodaをリードするGansoさん。
最後にカポエイラと猫についてひとつ伺って良いですか? カポエイラで歌われる曲では、様々な動植物をメタファーとして歌詞に取り入れ、カポエラの精神、カポエリスタとしての心構えなどを伝承してゆく文化がありますね。Ganso(ガチョウ)という名前も本名ではなく、師匠から授かったApelido(アペリード=あだ名)です。猫もカポエラの歌に登場しますか?
例えば、すでに他界されたバイーア出身のメーストレ(師匠)で、世界的に知られたビリンバウ(カポエラで演奏される象徴的な弦楽器)の名手でもあったMestre Gato Preto da Bahia(バイーアの黒猫)がいましたが、猫を題材にした歌はほとんどないのです。稀にあっても、猫はあまり良い扱われ方をしていない。例えばこの曲……
Dona Maria, seu gato deu
deu uma tapa na cara do meu
Dona Maria, seu gato deu
duas patadas na cara do meu
Dona Maria, seu gato deu
seu gato deu, seu gato deu
(以下略)
ドナ・マリア! あなたの猫が 私の猫の顔を引っ掻いた!
ドナ・マリア! あなたの猫が 私の猫の顔に、二度も足蹴りを喰らわせた!
ドナ・マリア! あなたの猫が! あなたの猫が!
(以下略)
「お前の猫が、うちの猫に手を出した」というような近所の諍いの歌がありますが、あまりいい役柄ではないですね。「お前の弟子が、私の弟子に手を出したから、きちんと首輪に鈴つけてつないどけよ!」といった意味合いなんでね(笑)。カポエラは奴隷制度に対する抵抗運動でもあったのですが、猫はカポエラのこうした文脈にはあまり当てはまらなかったようです。