本で猫をつかまえる方法

本で猫をつかまえる方法

……この気まぐれで何を考えているのかよくわからない、だからこそ惹かれてしまう永遠のミステリアスな人類の隣人。この隣人をいざ捕らえようとするならば、果たしてどのような「つかまえ方」が考えられるのでしょうか。猫アレルギーという重苦を背負いながらも「ひょっとしたら治っているかもしれない」ので「確認のため」猫カフェに潜入し、無念にもくしゃみの嵐に撃沈された、猫好きブックディレクターの幅 允孝さん。そして、ネコ人間のシリーズで知られるプラハ在住イラストレーターの三ツ島 香織さん、青山ブックセンター時代の同僚だったという本好きなお二人に「本で猫をつかまえる方法」を伺います。

インタビュー構成・聞き手:門倉未来(MIKIKADO

Photo: Mika Johnson (Daisy with Rider)

三ツ島 香織(みつしま・かおり)

イラストレーター。東京生まれ。約8年程過ごしたプラハからマルセイユへと拠点を移す。ファッション誌NUMÉRO TOKYO、GINZAの特集記事、パリ発の文芸誌『Sève』の創刊号、プラハのガイドブック『Prague Superguide Edition No.6』、ジュリー・デルピー監督の長編映画『My Zoe』、在チェコ・フランス国立社会学研究所 (CEFRES) の創立30周年ビジュアルなど、幅広いプロジェクトの挿画を担当。PRESTEL社から出版された『Land of the Rising Cat』(Manami Okazaki著)にネコ人間シリーズの作品がインタビューと共に掲載。

Instagram: @kaorimitsushima
www.kaorimitsushima.com/

日本の猫文化についての書籍「Land of the Rising Cat」のインタビューのページ。

表紙と挿絵を担当したプラハのガイドブック「Prague Superguide Edition No.6」。

2022年に創刊されたパリ発の文芸誌「Sève」への挿絵。


幅允孝(はば・よしたか)

有限会社BACH(バッハ)代表。ブックディレクター。人と本の距離を縮めるため、公共図書館や病院、学校、ホテル、オフィスなど様々な場所でライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「早稲田大学 国際文学館(村上春樹ライブラリー)」での選書・配架、札幌市図書・情報館の立ち上げや、ロンドン・サンパウロ・ロサンゼルスのJAPAN HOUSEなど。安藤忠雄氏の建築による「こども本の森 中之島」ではクリエイティブ・ディレクションを担当。早稲田大学文化構想学部非常勤講師。神奈川県教育委員会顧問。

Instagram: @yoshitaka_haba
http://www.bach-inc.com/

こども本の森 中之島

こども本の森 遠野

早稲田大学 国際文学館(村上春樹ライブラリー)


門倉:幅さんは未だ猫を飼われたことがないそうなのですが、原体験としてどのような猫との出逢いがありましたか?

幅少年、猫に襲われる。

幅:なんとなく覚えているのは、よちよち歩きの2~3歳くらいの頃です。僕の近所にたくさん猫を飼っているおばちゃんの家があって……10匹以上はいたと思うんですよ。庭にもゴロゴロしていて。そのワサワサと猫がいる庭を通って、郵便受けに回覧板を届けに行ったんです。猫って犬と違って追っかけないと思うんですけど……追っかけられたんですよ!それで、めちゃめちゃ追っかけられて「ギャッ」って思ったのが、マイ・ファースト・ネコ体験といいますか。

香織:え~! なんで追いかけられたんだろう?

幅:猫って絶対に追っかけるような習性の動物じゃないじゃないですか。だから記憶違いじゃないかと思っているんですけれど。とにかく僕の中では「追っかけられた」っていうのがスタート地点なので、マイナスから出発しているのは間違いないです。

幅青年、猫アレルギー発覚。

幅:その後、犬は飼っていたんですけれども、猫は特に飼う機会もなく。追っかけられたし。ところが、中学生になって猫のいる友人宅などに遊びに行き、「抱いてみ?」とか言われて抱いてみたりして。「おおぉ。すぐ逃げるわ」などと言いながらも、膝の上に一瞬乗ったりするんですよ。あったかくて、柔らかくて、気持ちいいし、可愛いなって。犬とは骨格というか柔らかさが違うなあ、なんて思ってました。で、そいつの家から帰ってきたら、めちゃめちゃクシャミが。これってまさかの猫アレルギー?ということでさらにもう一段階マイナスに。

香織:あ~、それで発覚したんんだ~。

幅さん、養老さんの猫「まる」に出逢う。

『まる文庫』
著:有限会社養老研究所
写真:関 由香
講談社文庫

幅:で、もう猫とはもう一生ご縁がないな、と思っていた幅を変えてくれたのがマルという猫の写真集でした。マルはスコティッシュ・フォールドなんですが、メチャメチャふてぶてしくって!……良かったんですよ。なんとも元祖ブサかわいい系の。僕は養老さんって、解剖学という学問と生き方を強く結びつけながらも軽やかに、でも何か人の気づいていないことを教えてくれる人だと思っているんです。その尊敬する養老さんが、マルにとっての「餌出し器」だとおっしゃるので、一体どういうことだ?と『まる文庫』を手に取ってみたんです。マルはマヨネーズが好きで、ドベっとした、やる気が全く無さそうな、ゴロゴロしている、養老研究所の営業部長なんですけれど、僕はその泰然自若とした姿に惚れてしまった。……っていうのが、最初の「あ、猫ってカワイイかも」です。マイナス・スタートだった僕のネコライフを画期的に折り返してくれた存在でした。マル、太々しいですよね。めちゃめちゃデブなんですよ。体も態度も人一倍大きい。自分の縄張りに野良猫が侵入しているのに、マルはそれをドンと傍観していたりするんです。「まるを見ていると、生きるってことも『だから、それがどうした』。人のことも『どうせ人間のやること。たかがしれてる』と思えてくる」と、ある新聞のインタビューで養老さんが答えていらっしゃるんですが、その感じが……なんて言うんだろうなあ……「いいな」って思ったのが、もし生まれ変わったら、もしくは猫アレルギーが治ったら、飼ってもいいな、と思った最初の1匹です。

香織:マル……今、見てます写真。すごい太々しい~(笑)。座り方がすごい!

開眼。猫本にみるキャラクターの多様性に惹かれる

幅:そこからすごく猫好きに。ここ15年くらい、猫本ってすごく増えているんです。ライブラリーづくりの仕事でも、犬よりは猫本を揃えたいという依頼が多かったりします。実際読んでいても、犬本よりも猫本の方に多種多様なキャラクターが見られます。犬はなんとなくキャラクターが決まっているんですよ。人間に対する献身とか。何か「正しさ」みたいなものに基づいた物語が多い。行き当たりばったりで、思いつきで生きていて、フラフラしていて不誠実な犬って、あまり物語に描かれないんですけど、猫は逆。物語を作る上で「正しさ」を体現しないところが、人間にとってすごく面白い。猫本といえば、世田谷にキャッツ ミャウ ブックスというのがあるんですが、猫が店員なんです。シェルターからもらわれてきた猫たちが、お店の中を店員としてぷらぷら歩いたり、本の上で寝転がったりしていて、しかも置いてある本が全部猫の本という素晴らしい本屋さんです。

香織:えー!お給料も出ていたり(笑)?

幅:もともと別の仕事をされていた方が、猫とビール好きが高じて、パラレルキャリアとして週末だけ開ける形で始められたそうです。本屋さんとして本当に素晴らしいんですが、まあ、やっぱり行ったらクシャミは出ますよ(笑)。そんなこんなで、歳と共にアレルギーも鈍くなってくるだろうし、いつか飼ってやる!と思っています。将来的に一戸建ての事務所と住居を構えたいと考えているんですが、その時はやりたい放題の予定です(笑)。

猫と住めば都。一緒に暮らせばアレルギーは治る?

香織:一緒に住んでると、猫アレルギーは無くなるらしいですよ。

幅:そうらしいですね。知人が猫好きで知られた家の方と結婚したんですが、彼はひどい猫アレルギーなんです。しばらくして様子を聞いてみたところ「いや、まだありますけど、慣れです」と、徐々に治っているみたいで。だから、僕も多分大丈夫。こんなに好きなのに会えないっていうのも、なかなか猫らしさがありますよね。逆にそこが心の奥底を煽ってくるんですよ。近くて遠い、遠くて近いというか……シェイクスピアじゃないですか。

猫と人間が、不思議な結び目のみたいなものを築いてきたということ。

『猫語の教科書』
著:ポール・ギャリコ
翻訳:灰島かり
ちくま文庫 1998年

幅:『雪のひとひら』などポール・ギャリコの作品は好きでよく読むんですけれども、今回ご紹介するのは『猫語の教科書』です。「犬語の教科書」っていうのは絶対できないと思うんです。猫という存在が、人間との主従では全くなく、でも不思議な結び目みたいなものは築いているということが、この本ですごく分かる。著者(猫)の略歴ですが「交通事故で母を亡くし、生後6週間にして広い世の中に放りだされる。1週間ほどの野外生活を経て、人間の家の乗っ取りを決意。」って(笑)。人生としては中々ハードに生きているのに、ものすごく逞しく、狡猾、かつ魅力的。実際この本を読んで知ったのは「声を出さないニャーオ(サイレント・ミャオ)」。基本的には「外に出たい」「お腹すいた」「気に入らない」とかで「ニャーオ」って言うらしいじゃないですか。「その効果たるや劇的です。男も女も心を揺さぶられて、まずどんなことでもしてくれます。」「ものごころついて以来、人間の研究を続けている私ですが」この語り口が(笑)。猫の主観にギャリコが憑依して書いているのがこの本なのですが、こういうことを猫は本当に考えていそうだなあ……って、猫を飼ったことのない僕は思うんですが、実際に飼っている香織さんはどうなんですか?

香織:あ、でも本当にやりますよ。しかもちゃんと目を見ながらやるんですよ。声なしのミャオ。ここぞと言うときに。それで全部自分の欲しいものを手に入れる。『猫語の教科書』の原題って『The Silent Miaow』なんですよ。

幅:声出しのニャーオの説明もちゃんとあるんですけれども、あわてっぽくニャーオと鳴くと注目を集めるし、調子をつけてあやすようにゴロゴロニャーンとするのも効果的、というような「じょうずな話し方」の説明が面白いですね(第12章)。人間の刺激の仕方に対する繊細な書き方もそうなんですが、ポール・ギャリコっていうのは、何だろうなあ……チャーミングですよね、文章が。本の最後のところが破れて読めなくなっているとか、そういう仕掛けもいい。あと、基本、男性は不安定な生き物だからコツさえ掴めば操縦は簡単で、女性はすごく頭がいいから決してみくびってはいけないって(笑)。

香織:上から目線(笑)。私はプラハで生まれたポンポンという子猫の里親になったときに、この本を読んだんです。それで育て方を考えようかと思って。甘く見られてはいけないって(笑)。ちゃんと英語と日本語で読んだんです。箱のベッドとかも参考にして作ったりとか。

幅:バイブル化してるじゃないですか(笑)。ちなみに翻訳を手がけられた灰島かりさんは、風刺やブラックユーモアに満ちた短編小説や、絵本や、児童文学で有名なロアルド・ダール(Roald Dahl)の翻訳をされています。ですから『猫語の教科書』も比較的読みやすい文体です。そして文庫版には、猫の少女が登場する『綿の国星』で有名な、大島弓子さんによる2ページの書き下ろし漫画『わたしにとっての“猫語の教科書”』が掲載されています。大島さんが飼っていたサバという猫が亡くなった後に描かれたものですが、そのサバと『猫語の教科書』のことを描いています。デジタルと紙の本の使い分けっていうのは、今後も進んでいくと思うんだけれども、この本は紙で保有し続ける喜びがあります。猫という存在が、人間という存在との主従では全くなく、でも不思議な結節点みたいなものは築いているということが、この本ですごく分かりました。そういうわけで『猫語の教科書』は、猫を通じて人間を知ることのできる素晴らしい本だと思います。

門倉:「結び目を築く」という表現はしっくりきますね。猫がすれ違いざまにシッポをふわっと触れてくる時って、結び目がキュっと結ばれずに、一瞬結ばれるかに感じられた結び目が、解けていってしまうんじゃないかと感じます。そのホロホロと捉えがたく摩擦する感じが、人と猫との交流の一瞬なのかもしれないですね。

幅:確かに。僕ね、ある人の家の猫に会いに行った、いやその人に会いに行ったら猫がいたんですけれどね。そこの猫がですね、僕の左足のところにお腹をスウ~っとぶつけて歩いていくんですよ。「なんなの?これなんの合図?」って友人に聞いて(笑)。ちょっとドキドキしながらね、こっちは。「これ何か言ってるよね?」みたいな。スウ~っと、可愛い白猫がおなかで僕の左足を撫でていく。

香織:もう落とされてますよね。それ。一瞬で。

幅:ちょっとキュンとくるんですね。やはりたくさん接しているから落ちるんではなくて、短い時間でも落ちる時は落ちますよね。

まるで一匹の猫の中に長い時間が詰まっているような、熊谷さんの猫。

『熊谷守一の猫』
著:熊谷守一
文:熊谷黄「父と猫と家族と」
求龍堂 2004年

幅:熊谷守一は近代洋画家なんですが、とにかくやる気待ちが長かった人なんです。1880年に岐阜県で生まれ、裕福でありながらも複雑な家庭で育ちます。後に家は没落してしまうんですが、東京美術学校で青木繁ほか、その後の日本の画壇を牽引する人々と交流しながら、非常に優秀な成績で卒業します。にもかかわらず、どうしても自分の描くものが許せない。というか納得できずに、結局、全く絵を売らず、岐阜県の山奥で木材を伐採して川に流す、日傭(ひよう)という仕事をずっと続けます。50~60歳を過ぎてから、だんだん、だんだん、自分の画風が自分の心に近づいてきて、絵を描くことを専門にやっていった人です。
この画集は、彼がひたすら描いた猫の絵が掲載されているんですが、熊谷守一という画家は、ひたすら時間をかけて注視してからじゃないと描かない、描けない人なんですね。他にも彼の代表作の一つに、蟻を描いた抽象画があるんですが、すごくシンプルな色と線で描いているんです。池袋のアトリエの庭で、地べたに這いつくばって、蟻はどの足から歩き始めるのかを注視しようと、ぐーっと三日三晩見て、左の前から二番目の足から動くということを発見し、「よし、やっと描ける。」って。彼は昆虫から何から、生き物全般をモチーフにしているのですが、「生きものは人間と違ってウソをいわないからかわいいと思う。」と語っています。実際猫が大好きで、本当にいろんな猫と暮らした人なんですが、最後は片目が見えない猫と一緒でした。それも野原なのか家なのか判別しないような曖昧な住まいで。彼は髭をぼうぼうに生やした仙人みたいな風貌の人で、本人が野良猫みたいだった。晩年は絵が非常に評価されて、勲章なんかも授与されそうになるんだけれども、全部辞退されて。とにかく、地べたを見続けながら絵を描いた人ですね。僕がこの本の中で一番好きなのは、猫が丸まっている絵なのですが、熊谷守一は猫の丸まりを描く神様だと勝手に思っています。
ところで見てくださいこの写真、猫とご本人が背中をくっつけて寝ている(笑)。同胞って感じですよね。ふつう猫を描けって言われて、彼のような描き方にはならないじゃないですか。こっちの猫が丸まって球体になっている感じの作品なんかは、下書きを奥さんに見せたら「でんでん虫ですか?」って言われたらしいです(笑)。

香織:飼い主からすると一番愛おしいと思う体勢ですね。気持ちはよくわかります。

幅:熊谷の丸まっている猫の、この球体感といいますか。この画集の中で、熊谷さんのご長男が「父と猫と家族と」ということでインタビューに答えているんですけれども、基本は別に飼うという感じではなくて、猫の気持ちになって、猫が困らない環境、もしくは通り道を家の中に作っているという感じで、猫が自由に入って自由に出る。そのように暮らしていたおじいさんだったようです。

門倉:あるインタビュー映像の収録中、熊谷さんがずっと触っていた石っころがあったんです。それが特に好きな石だそうなんですが、今思い起こしてみると、あの石は丸まった猫っぽいですね。

幅:作品が抽象なんですけれども、最後丸くなるんですよね。団子や水溜りなどモチーフには色々とあるのですが、最後は真円みたいなものを、こんな筆致で描くようになって。それが究極のモチーフみたいになるんですけれども、そこに近づく過程で、団子を描いたりする中の一つに、やはり丸い猫を描くというのは絶対必要だったんじゃないかと僕は推察しています。守一の息子さんが肺炎で亡くなった時、その死に顔を描いている自分に嫌悪して描くことを辞めたというエピソードがあるんですが、そういった死別を契機に人の目鼻を描かなくなっていくんですね。動物だけは、唯一目鼻が描ける。不思議なバランスの方ですよね。熊谷が描くに足ると感じた究極のフォルムが、猫の中に息づいていた。かわいいとかシンプルだとか、そういうのを全く狙っていない線なんですよ。そうではなく、こう描かざるを得なかったというような。その線の動き、筆の動きみたいなものが、崇高な感じすらする。シンプルな絵なんですけれども。

門倉:猫って、実は熊谷さんの絵のように世界を見ているんじゃないか、と思える時がありますね。アクションまでの待ちが長いじゃないですか。ネズミを狙ってじっと待っていて、素早く飛びかかる瞬間に、進むべき軌道が見えるんでしょうか。

香織:私猫を描く時って、曲線をすごく意識していて、絶対鉛筆で下書きしないんですよ。「猫を描く時の筆の持ち方」があって、そうと決めている訳じゃないんですけど、自然ともう10年ほど、そういう感じになっているんです。1匹の猫描くのに20枚は費やします。それこそ「捕まえる」「捕まえなきゃ!」と、猫を描いています。でも熊谷さんの猫って、なんか直線というか、カクカクしていますね。それがすごく面白い。

幅:熊谷さんの猫は、一匹の猫の中に長い時間が詰まっているような感じがしますよね。自分の中の納得する線に到達する時間も含めて、やる気待ちの時間も含めると、時間の凝縮感は高い絵だと思いますね。ちなみに僕は娘の榧(かや)さんと、インタビューのためにお会いしてお話を聞いたことがあります(Discover Japan 2016年12月号に掲載の連載記事「あの人を忘れたくない」)。熊谷守一の生家を改装した美術館もあるので、機会があれば是非行ってみてください。

自由気ままというよりは、自分のペースやルールが色々とあって、
それに私達がちゃんと従うようにと人間に教える事に熱心だったポンポン。

香織:私の猫史ですか? 小さな頃から沢山の猫との出逢いがありましたが、約15年一緒に暮らしたグレーのトラ猫、ポンポンが私にとって一番思い出深い猫です。プラハで生まれ、ニューヨークやオハイオなど、アメリカで10年近く過ごした後、再び生まれ故郷のプラハに戻って来た旅猫です。私は自宅で仕事をしている関係で、一日中ポンポンと同じ家で過ごすことが多かったので、彼女のルーティーンを観察するのが面白かったです。例えば、一日のそれぞれの時間帯で、寝場所を移動するのを発見した時には、猫には独自の時間感覚があるのではないか、と気付いたり。春夏だと、朝8時にはキッチンのソファの朝陽が指すところで寝ていて、10時には寝室へ、14時にはバルコニーのある別の部屋へと移動し、16時になるとバルコニーに出て下の階の女性が花に水をやるのをこっそり眺めている……とか。これを季節の変わり目まで、ずっと繰り返していました。そのルーティーンを邪魔しようとすると、すごく怒ってまた元の場所に帰ったり。太陽の差す場所を身体で覚えて移動していたので、「なんだか時計みたいな猫ね」といつも眺めていました。自由気ままというよりは、自分のペースやルールが色々とあって、それに私達がちゃんと従うように、人間に教える事に熱心な感じがしました。それでも、悲しいことがあって泣いていると、どの部屋にいても大急ぎで駆け寄って来て、自分の頭で涙を拭いてくれるような人情深い猫でした。私が花粉症で鼻をすすっている時も駆け寄ってきていたので、きっと音と色々な状況を結びつけて覚えていたんでしょうね。2021年のバレンタインデーに彼女が旅立った時も、最後のお別れの瞬間に私が泣いていたら、ペロッと涙を舐めてくれました。

幅:いいやつじゃないですか。つっけんどんなところも含めて本当にいいやつじゃないですか。

香織:そう。なんだか、いざというときだけやさしいっていうのが猫。

幅:愛おしいですね。ひとつの生命として。

香織:そして、普段はちょっと距離感がありますね。

幅:犬は人間をファミリーだと思っていそうですけれど、猫はちょっと違うかもしれないですね。

家の余白が猫になる。ジャン・コクトーと猫。

‘J'aime les chats,
parce que j'aime ma maison et qu'ils en deviennent, peu à peu, l'âme visible.
Une sorte de silence actif émane de ces quelques fourrures qui paraissent sourdes aux ordres,
aux appels, aux reproches.’
――Jean Cocteau

香織:これはジャン・コクトーが、おそらく何かのインタビューで語った内容からの引用です。彼は有名な猫好きだったのですが、「Le Club des Amis des Chats(猫の友達クラブ)」の熱心なメンバーで、彼の猫のドローイングがクラブのロゴなんです。この引用は猫を飼うまで私には理解できなかったんですけど、今では大好きな言葉です。「猫が好きだ。なぜなら、私はこの家を愛しており、彼らが徐々に、その目に見える魂になってきているから。」というような意味なんですが、なかなか翻訳が難しいですよね。「魂」なのか「気配」なのか、どっちが適切なんでしょう。英語では「visible soul」、原典では「l'âme visible」となっていますね。

門倉:ソウルというと何かが個体に宿っていそうですが、エスプリというと気配というか存在が空間に広がっていそうなイメージがありますね。その家の「空間」の魂や精神といった、本来は目に見えないものなんだけれども、その見えないものが猫である、という事なんじゃないですかね。l'âmeって、霊とかゴーストっていうよりは、アニマ(ラテン語で生命や魂を意味する)的なニュアンスですかね。「気」とか? 「命を吹き込まれた」みたいな。

香織:でもやっぱりl'âmeの英訳は「Soul」みたいです。例えば、「Soul mate」は フランス語では「L’âme soeur」。確かに、猫がいると家の空気が変わります。猫がいる家といない家では空気が違います。犬って「家族の一員」というような明確な存在感があるじゃないですか。

幅:犬はなんか「同胞だぜ!」っていう感じしますね。

香織:そうそう(笑)。なんかキラキラしてるんですよね。私の中では。太陽みたいで。でも、なんだか猫って「……あれ?……ホコリ?」みたいな(笑)。こんなこと言ったら何ですけれど、本当にホコリみたいで!「あ、いる?」みたいな。まあ、割とこう……影の存在なのかな。

門倉:でもそれ、言い方を変えるなら、余白が全部猫ってことですよね?

香織:そうそう!そういうことです。

香織:でも、それが猫と暮らすまでは、全然この引用の意味はわからなかった。ポンポンと暮らすようになってからは、猫を描くときも、なんだか全体を描きたくなくって……線もちょっと途切れてる感じで。ぴったりな言葉が、どの言語でも見つからない感情ってありますね。そういう捉えられないものを、色とか線とかで、その隙間じゃないけど、そういうのをいつも絵で描きたいなって。でも描きすぎないように。猫のスピリットというか「存在」みたいなものを曖昧な線で表したいんです。

門倉:その狙いを私が正しく受け止められたかどうか分かりませんが、香織さんの絵ってなんだか匂いがするんですよ。共感覚を刺激されるところがあって。作品の題材に、思春期の女の子っぽい世界が多いじゃないですか。先程の犬のキラキラ感とはまた違うんですけれども。多分、男性にはわからないかもしれませんが、あの私は女子校だったんですが、体育の授業の後の更衣室の、具体的な匂いはしないんですが、嗅覚で捉えきれない匂いが、眩しくて目がシパシパしたことを覚えていて。それを香織さんの絵を見ていると思い出すんですよ。絵を見てると急に鼻がつんとしてきたり。猫がいる空間って多分、人間が無意識のレベルでしか知覚できないような香りを感じているんじゃないですかね。

幅:なるほど。魂か。ちなみに僕、魂って聞いて河合隼雄さんの『猫だましい』 を思い出しました。

猫をつかまえようとしたら、猫にだまされて、たましいを抜かれる話。

『猫だましい』
河合 隼雄
新潮文庫 2002年

香織:あ、まさにその本を私も今回セレクトしてました!

幅:河合さんも猫好きなんですが、彼の集めた古今東西の物語に登場する猫を紹介している本です。面白いのは、同じ猫でも一匹一匹別個の全く異なる魂みたいなのがあって、その一方で人間がそれに右往左往して騙されたりするんですね。タイトルは、魂(たましい)と騙し(だまし)をかけています。

門倉:確かに騙される時っていうのは、間に繋がってあったはずのものが切れて、その間のものを不意に持っていかれてしまったような、魂を盗られたような空虚な気持ちになりますね。熊谷守一の猫の絵にも感じたのですが、あれは存在から魂が抜けて、絵になったような雰囲気の作品です。我の削ぎ落とされた、その人やモノの魂の残像のような。確かに猫とじっと対峙していると、魂を抜かれそうな気持ちになることはあります。

幅:でも猫に騙されるのって、嫌な気持ちではなかったりしますね。悪魔的なものに騙されるのとはちょっと違う。「ああ、そうだったのか」という。そんなことを、香織さんのお話を聞いていて思い出しました。

門倉:そういった余白のキャッチボールみたいなものが、猫と対話する楽しさなのかもしれないですね。確かにやりとりはしているんだけれども、その中身がなんと言ったらいいんでしょう、本当に「余白」ですよね。「無い」わけじゃない。

幅:余白というか、余韻というかね。

香織:なんだか今日、捕まえられたんじゃないですか?猫。

門倉:捕まえられましたね!よかったです。ありがとうございました!

Credit

インタビュー構成・聞き手 門倉未来(Mikikado)